2012/11/11

銀河ライター河尻亨一さんのキュレーターLABからみる、これからの編集者に必要なもの

よく、今という時代は、「情報過多な時代」と言われることがあります。

そうした中、情報を選別し、独自の切り口や意味をもたせるキュレーターやキュレーションという言葉が、ここ最近話題になっています。もちろん、キュレーターやキュレーションの元々の意味でもあるアート・芸術の世界としての意味と、2012年という時代に話題になっている「キュレーター・キュレーション」は、違うかもしれないし同じかもしれない。色んなところに行くたびに、そうした議論が起きます。かくいう自分も、色々なところで、その言葉の定義や意味について、考える機会も多くありました。

もちろん、言葉の定義や意味などは、時代や背景、そのときの情勢などによって変化していくことも多いと思います。なまじっか一つの言葉の定義として定め、かたくなに固辞するべきものでもないと思います。しかし、それでも、先人が築きあげていきた歴史や経緯、言葉がもつ重さなどを踏まえつつ、考えていかないといけないものだと考えます。が、まだ、僕自身も明確なものが言えるとは思っていないので、日々考えていきたいと思います。

そんなときに、元「広告批評」編集長であった河尻亨一さんと出会い、河尻さんが主催する『銀河ライター発「働くキュレーターLAB」―企画して、取材して、書いて、広めて解決する―』という講座が、博報堂ケトルの嶋浩一郎さんと、ブックディレクターの内沼晋太郎さんが中心となって立ち上げた書店B&Bで、9月からおこなわれていました。その講座も、先日の第10回目の講座で一旦終了でした。

そして、その講座の第三回ゲストとして、不肖ながら、私と、同世代でメディアプロデューサー集団KAI-YOUを運営している武田俊さんと一緒に、登壇させていただくことがありました。実際に登壇したのは9月16日と少し前のことだったのですが、講座に参加させてからいままで見させていただき、ただの講座ではなく、実践を踏まえながら体験していく中身であることに、個人的にも関心と感動をおぼえ、自分なりに考察しつつ、河尻さんとそれからも何度かお話させていただく中で感じたことも、少し綴ってみたいと思います。


今の時代に必要な編集的視点と発想

そもそも、「働くキュレーターLAB」の目的とはについて、僕なりの解釈で書いてみたいと思います。

これまで、編集という行為自体は、なにがしかのテーマに沿ったメッセージや記事やコンテンツを設定し、様々な材料を“集め”、テーマに沿うように“編む”ことを、編集と呼んでいました。その多くは大手放送局や出版社、映画など、さまざまな分野、しかも、一般の人達に対して、一定の水準とクオリティーを様々な人たちと協働でつくりあげ、発信・出版・放送するような分野や業種に多く存在していたと考えられます。

そして、いまの2012年という時代。インターネットも普及し、ブログやホームページが、そこそこに簡単なものであれば誰でもつくることが可能な環境になってきました。そして、mixiやTwitter,FacebookなどのSNSの発展は、これまで情報を受信ばかりしていたものが、あらゆる情報を自分たちが発信できる時代(そして、発信しているという自覚なしに発信しているという時代)になっていると、考えられています。

そうした中で、これからの情報の価値やコンテンツの価値、そして、なにかを企画し、コンセプトをつくり、発信し、活動していくということが簡単になっているからこそ、しっかりと学び、考え、経験し、実践していかないといけないものだと感じることも多くなりました。なにかを発信すれば誰がが反応してくれたりと、自己承認という欲求と、即時的な反応による満足は、ときに人やモノやコンテンツとしての質すらも変化する可能性ももっています。「誰でも時代」ということは、「総アマチュア」な時代にもなりかねない。それは結局のところ、全体としてのクオリティーが低下し、結果として将来や未来にとって価値のないものばかりが流布してしまうことになります。

そうではなく、プロである編集者であるために、いまの時代を読み、いまの時代の少し先を行きつつ、考えを練り、そして社会にとって意義のある行動をしていかないといけない。そのために、いまの時代がどうあるか、そして、これからの時代をどう読みとり、そして考えていくか。編集者としてどう生きているか、ということについて議論し、考える場が必要なのだと感じます。そうした考えのもとに、実際に現場で活動されている人などの話を聞きつつ、話を踏まえた上で、課題や企画を考え、実践していための“場”として、キュレーターLABはあるのだと思います。

ラボで話をしたこと


そんな中、僕と武田くんはその第三回のラボのゲストとして呼んでいただきました。元々河尻さんとは、2011年におこなわれた同志社の裏EVEというイベントでご一緒し、そこで初対面だったにも関わらず、河尻さん、そして津田大介さん、関西ウォーカー編集長の玉置さんらと僕という並びの中、20代の編集者として切り込んで話をさせてもらったことがきっかけでした。その出会い以降、いろんな所でちょくちょくお会いしお話させていただく中で、僕らの登壇時のテーマである「ネタは“ソーシャル”に落ちてる―SNS×街場連動企画とは?―」ということで、話をしてもらえないかというご提案をいただきました。

打ち合わせでは、河尻さんが僕らに考えていることを踏まえつつ、僕と武田くんそれぞれが見ている世界、見ている未来についてざっくばらんに話をしました。色んな話が飛んではいたのですが、そもそもとして、僕と武田くんは、見ている世界が似つつも、互いに違った手法論で取り組んでいるような感覚で、武田くんの表現曰く「背中合わせで似てる風景を見ている」という感じでした。(そのあたりの、僕と武田くんの話は、また別途書こうかなとも思います)ちなみに、浴衣で参加しているのは意味があるのですが、それは講義参加者か僕に直接聞いてください。

で、事前の打ち合わせ後の本番でも、それぞれの立ち位置や今に至るまでの考え、そして、どういった編集的な手法と発想をおこなっているかについて話をさせていただきました。河尻さん含めた3人ともが、しゃべりだしたら止まらないような性格のようで、ラボの90分間ひたすらしゃべりっぱなりだった気がします。僕らが考えていること、見ていること、そして、これからどういう風に進めていくか、ということについて、なにか感じてもらえたらと思っています。

ちなみに、ラボの様子は、受講生の一人である清水さんのイラストブログにまとまっています。感謝です!

いろんなお話をさせていただいたのですが、僕として言いたかったのは、“いま”を見るんじゃなく“未来”を見て行動してほしい、ということかなと思います。とかくいまを見がちで、目の前の小さな変化や差異にばかり気を取られてしまいそうですが、そうではなく、3歩先な未来を見据え、そして、その中で0.5歩先、1歩先なものとして実現可能なもの、もしくは、チャレンジしがいのあるもの、もしくはこういう流れ、こういうことがあるともっといいのではないか、ということを考えながら、日々アンテナを張りつつ行動し、そして、ちょっと考えてみて、それらをまわりと共有したり、自分なりにアウトプットをしてみたりすることが大事なんじゃないかな、と思っています。

何かを追うよりも何かを作る感覚をもつということは、まだ見ぬ未来だけれども確実にある未来であると信じ、それに向かって自分がいまなにをしていけばいいかを考えることなのかなと思います。ラボの中でも話をしたと思いますが、自分自身を客観的に俯瞰して見、“自分”という存在がこれからどう歩み、どういう行動をとると社会やまわりにとって意味のあるアクションなのか、ということを考えることだと思います。決して自分自身の満足や考えではなく、まわりの存在としても、意味があるか、そして、自分でしかできないことはなにかということを日々考えていくことだと思います。人は一人では生きていけないからこそ、他者といかに協働し、社会が生きやすいものにすることが、結果として自分に返ってくるものだと想像できるか。そこが大事だと思います。

というようなことを、ラボでは話をさせていただきました。編集とかキュレーターということもそうですが、それらすらなにかを達成するための手段であり、その先にある大きな目的をどう据えるかということが大事だと思い、そんな話をしたと思います。手法やテクニックよりも、自分自身がもつ夢や野望や将来像や、これからの世の中をどう見ているか、そしてどう見ていくかということがあれば、いまやっている行為はそこまで問題でないと思います。逆に、いま自分がやっている行為が未来にとってどうつながっているかを想像できれば、どんな仕事も楽しく思えると思います。だからこそ、ラボでは手法的な話よりも、考えや意識をどうもつか、ということを話させてもらいました。


(ラボの様子の写真)


コンテンツではなく、コンテキストをどう作るか

このラボ自体も、おそらく手法やテクニックを教える場にはしてはないと、河尻さんも話をしていました。そうではなく、活動している人たちがなにを考え、どう行動し、どうアウトプットし、どう自分の身にしているのかということを感じさせることを大切にしていると思います。そして、毎度毎度受講生には課題と称し、様々なテーマが課されていました。おそらく、受講生の人たちは毎回大変だったと思います。でもそうした課題も、考えや思考を訓練させる素晴らしい取り組みだあると同時に、数十名いる受講生それぞれが多様な考えや経験、思考をもちいままで生きているんだ、ということを感じさせられます。人によって得意不得意のあるもの、特異なジャンルや苦手なジャンル、デザインが出来る人、発想が斬新な人、文章が上手な人、様々ないます。そしてそれらすべてが、誰が素晴らしいとか、どれがいいということでもなく、自分自身の頭で考え、自分なりのアウトプットをしっかりとし、ラボのメンバーと議論したり語り合ったりすることが大事なんだと、ゲストが呼んでいただいたあともラボに関わった身として感じます。そして、その中にある、河尻さんの受講生らに対する愛情と思いは、何事にも代えがたいものです。

毎回講座が終わるたびに、懇親会などの交流があり、元々の講座以外にも、補講として様々なゲストを呼んで話をしてもらったり、休日にはメンバー同士で読書会や芋煮会などを企画したり、そこから、色々なものが派生したりラボを中心としてコミュニティができているのは、なにものにも代えがたいものだと思います。そして、そこをきっかけに新しい出会いやつながりが生まれたり、自分たちで実践したり、なにかを企画したりという“見えないアウトプット”こそが、ラボの目的でもあるのだと思います。

とかく編集などの仕事に携わっている人は、もちろん自分でコンセプトをつくったり企画をしたり文章を綴ったりという仕事をしていますが、どんな仕事も絶対に一人では成し得ないものばかりです。編集という仕事に携わる以上、他者と協働し、そこから新しい価値や新しいコンテンツ、新しい発想などを生み出し、それらを形にし、しっかりとしたアウトプットをつくっていく。それこそが、編集の仕事であると思います。そして、自分なりの未来を見据え、いまの時代に必要なもの、未来にとって必要なものを考え、どう動き、つながりをつくっていくか。そして、コンテンツを作るだけではなく、コンテンツ同士がつくる“コンテキスト”をどこまで見据えるか。そのコンテキストをどれだけ伝えられるかが、キュレーターとして必要な発想なのだと思います。そうした意味で、どうコンテキストを伝えるか、その材料としてコンテンツがあるのであり、そうした意味では「コンテンツそのものには意味があって意味がない」ということも考えられると思います。コンテンツだけではなく、コンテンツを踏まえたメッセージをどれだけもたせられるか。目の前にあるモノにとどまらず、その先をどれだけ考えられるか。僕自身も含めて、しっかりと考えていかなければいけません。


編集者は、コンテキストをどう作り出すか。これに必要な発想や思考のために、日々行動し、人と出会い、仕事をし、コミュニケーションしながら生きているのだと思うと同時に、河尻さんなりに、このラボを通じて受講生たちに伝えたかったコンテキストがどう伝わったか。これからの受講生や、ラボに関わった人たちが考えていかないといけないものだと思います。もちろん、僕なりにも、河尻さんのコンテキストを受け止めた一人だと思っています。今回のキュレーターLABに関わるすべての人たちにとって、この講義全体を通じて河尻さんが伝えたかったものをどう感じるか。おそらく一人ひとり違った考えや発想があると思いますが、ラボを通じて生まれた“何か”を、ぜひ大切にしてもらいたいなと思います。

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